障害者年金の等級と障害者手帳の等級が別のものということは
皆さんご存知のことと思います。
ツヨの場合は障害者手帳がA1の最重度ですが、
年金の等級が1級になるとは限りません。
申請には医師の診断書が必要になります。
我が家はずっとツヨの生育を診てもらっている現在のかかりつけの先生に
お願いすることになる予定です。
そこで問題になるのが、
20歳の申請時に「日常生活能力」の程度がどのようになっているか。
身辺自立がどこまでできているか。
この「できる」というのが自発的にできるのか、
援助があればできるのか、常に援助が必要なのかどうか。
ツヨが一人でお風呂に入れるようにならないかという記事を先日書きました。
できる部分はたくさんあるのです。
シャワーの扱いや、手順、体を拭いてパジャマに着替えるまで。
でも、毎日毎日、声掛けで洗う場所を言ったり身振りで教えたりするのですが、
どうしてもきちんと洗うことはできません。
それが先日記事のタイトルにした
「できるようになること できないこと」
なのだと感じました。
そもそも洗うという行為が
「毎日こうするものだから」というこだわりでしているだけで、
「体を清潔にするため」ということが理解できないのです。
だってツヨの知能指数は20もないのですから。
ここが限界か。
と思いました。
お風呂のドアの前で、毎日毎日365日、
かた。むね。おでこ。などど身振りをしながらツヨに声掛けをする。
それが「常に援助を必要とする」ことなのだと理解しました。
ちなみに判定には、できるできないだけでなく、
ツヨのようにこだわりから結局不適切な行動に行為が流れていってしまう
場合も認定の要素として考慮されるそうです。
例えば、一度できたはずの排泄の動作が、こだわりによって
トイレットペーパー遊びや水流しの行為が、
ある時始まってしまうなど。
軽度の方の場合だと、能力的にはできるのに、
「お風呂ではからだは洗わないでお湯につかるだけ。」
など決め込んで清潔を保てなくなると、
援助が必要、と考慮されるのではということです。
何かが始まってしまうこと。
この先のツヨの人生にはなんだかたくさんありそうな嫌な予感しかありません・・・
つづく・・・

いつも温かい応援ありがとう 
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